今週のお題「好きな街」
2022年5月1日日曜日。久しぶりに会った母と一緒にランチに行きました。お店はこちら↓
新Sun佐賀本店
新Sunです。
2019年のゴールデンウィークの時も来ました↓
親子揃って同じパフェを仲良く楽しました。
さすが果物屋さんのパフェです。フルーツがどれも美味しいです★ 大満足の大満腹です。
佐賀城の周りをゴールデンウォーク
ということで、お腹がいっぱいになったので、母と一緒に佐賀城のまわりを歩くことにしました。コースはこちら↓
2022年、今年の正月に走ったコースをメインに、今回はランではなくウォークです。
お堀
↑コレ、なんだと思いますか?佐賀城のお堀の鯉たちです。画像じゃ分かりにくいので動画を撮りました↓
コレを撮っている時、母が私の後ろで謎の動きをしていました。何でもここの鯉たちは人の動きに反応するとかで。よくわかりません。
母校
私の母校は「跡」になっています。(大丈夫、移転して他の場所にちゃんとあります)
佐賀城本丸歴史館になっています。
佐賀城本丸歴史館
アームストロング砲
アームストロング砲(アームストロングほう、Armstrong gun)
イギリスのウィリアム・アームストロングが1855年に開発した大砲の一種。マーチン・フォン・ウォーレンドルフ(英語版)が発明した後装式ライフル砲を改良したもので、装填時間は従来の数分の一から、大型砲では10分の1にまで短縮された。
砲身は錬鉄製で、複数の筒を重ね合わせる層成砲身で鋳造砲に比べて軽量であった。このような特徴から、同時代の火砲の中では優れた性能を持っていた。
佐賀藩での製造の有無
日本では佐賀藩がこの砲の製造を試みたといわれるが、実際に製造した砲がアームストロング砲と同等のものだったかについては、戦時中の金属類回収令により佐賀藩製造とされるアームストロング砲が供出で失われたために検証が不可能となり議論が分かれている。これは、アームストロング砲の製造にはパドル炉、圧延機、加熱炉、蒸気ハンマーなどの大規模な設備が必須であり、当時のイギリスですら最新最高の設備を持った工場でしか生産できないような物だった。当時の佐賀藩がイギリスに匹敵するほどの設備を持っていたとは考えにくいためである。当時精練方に務めておりアームストロング砲の製造に成功したと記した「からくり儀右衛門」こと田中久重の記録によると、問題の砲は鉄製の元込式の6ポンド砲である。また、福岡日日新聞社の北島磯舟によると、32本の施条が刻まれていたとされる。古写真も残されており砲身の構造こそ不明だが、元込め式であるのは写真で確認可能である。
お城の中の歴史観の中で泳ぐ鯉のぼり。
佐賀の八賢人?
(たぶん)役者さんが佐賀の八賢人を演じていました。あれ?いつのまにか一人増えてる。私は子どもの頃、佐賀の七賢人として教えてもらいました。きっと佐賀出身の人ならみんな知っているはず。佐賀県のサイトにも↓
佐賀の七賢人
みなさんは国が大きく変わろうとした江戸時代の終わりから、明治時代にかけてかつやくした人の中に、佐賀の人たちが大ぜいいたということを知ってますか?中心的な役割をはたした人たちの中に、佐賀の7人がいます。その人たちを親しみをこめて「佐賀の七賢人(さがのしちけんじん)」とよんでいます。ここでは、その7人がどのようなかつやくをしたのか学んでいくことにしましょう。
鍋島直正(なべしまなおまさ)
佐賀藩(さがはん)の十代目のお殿(との)さま。教育に力を入れ、多くのゆうしゅうな人材を育てました。大木喬任(おおきたかとう)
日本で最初の文部科学大臣(もんぶかがくだいじん)になりました。新しい時代の学校のしくみをつくりました。島義勇(しまよしたけ)
北海道(ほっかいどう)をたんけんし、札幌(さっぽろ)のまちづくりにこうけんしました。江藤新平(えとうしんぺい)
日本で最初の法務大臣(ほうむだいじん)になり、国のほうりつや新しいさいばんのしくみをつくりました。佐野常民(さのつねたみ)
「今の日本赤十字社(にほんせきじゅうじしゃ)」をつくりました。大隈重信(おおくましげのぶ)
総理大臣(そうりだいじん)に二回もなりました。また、早稲田大学(わせだだいがく)をつくりました。副島種臣(そえじまたねおみ)
せいぎかんが強く、誰に対しても平等に接し、外務大臣(がいむだいじん)としてかつやくしました。
佐賀県の観光情報ポータルサイトにも↓
Wikipediaにも↓
佐賀の七賢人(さがのしちけんじん)
江戸時代末期(幕末)から明治維新にかけて活躍し、その後も功績を残した、佐賀藩(今の佐賀県)出身の七人、鍋島直正、島義勇、佐野常民、副島種臣、大木喬任、江藤新平、大隈重信の総称である。
これらの人物は明治時代頃から顕彰されていたものの、「七賢人」と総称されるようになったのは昭和56年(1981年)ごろからであるという。佐賀県においては一定の知名度を持ち、2017年10月に佐賀新聞が行った調査では、10.2%の回答者が7人全員の名前を答えられたのに対し、25.4%の回答者は1人も答えられなかった。
と、なんと下の方に
佐賀の八賢人
「佐賀の七賢人」に、副島の実兄の枝吉神陽を加えて「八賢人」とされることもある。
さらに、佐賀県の公式サイトにも、
みなさんはご存知ですか?sagacityには英語で「佐賀市」とともに、「賢明な」「利口な」などの意味があることを!これを単なる偶然と思う方も少なくないでしょう。しかし事実、この街には過去に多くの賢人たちが生き、今でも、いたるところにその奇跡を見て取る事ができます。
江戸時代末期(幕末)から明治時代にかけて活躍した、「鍋島直正」、「島義勇」、「佐野常民」、「副島種臣」、「大木喬任」、「江藤新平」、「大隈重信」 の『佐賀の七賢人』。これに「枝吉神陽」を加えた『佐賀の八賢人』とういう偉人の総称は有名です。
今回は、その佐賀の七賢人・八賢人に幕末前の偉人を含めた12賢人にスポットを当て、その生きざまや、人間的魅力に迫る『佐賀の12賢人』を紹介します。
しかも8どころか、12に増えているし・・・。
間違いないのは、みんな賢人、偉い人達であること、です。
そんな偉い人のひとりとツーショットを撮りました↓
↑実は3D立体ではなく、2Dパネルというのは内緒。
鍋島家
佐賀城主 鍋島家の家紋。鍋島杏葉なべしまきょうようというらしいです。
鍋島氏(なべしまし)
武家・華族だった日本の氏族。武家としては近世に佐賀藩藩主だった。維新後、華族の侯爵家に列する。
★がぉー!ポイント★
という感じで、親子でウォーキングという名の歴史館散策に行ってきました。
ゴールデンウィークだからこそゴールデンウォーク↓
ー 適 材 適 食 ーてきざいてきしょく
小園 亜由美 (こぞのあゆみ)管理栄養士・野菜ソムリエ上級プロ・健康運動指導士・日本化粧品検定1級
*1:文中の表現は全ての人が対象ではない場合があります。現在治療中の方は必ず担当医や管理栄養士の指示に従ってください。食事療法は医療行為です。ひとりひとりの身体の状態に合わせた適切でオーダーメイドなカウンセリングが必要です。充分に注意してください。